キイロショウジョウバエは、実験動物として長く使われてきた存在です。飼育しやすく、世代交代も早い。研究の歴史も長く、データの蓄積も厚い。そんな身近なモデル生物のオスについて、死後に脳から腹側神経索までを電子顕微鏡で徹底的にスキャンし、ニューラルネットワークをほぼ丸ごとデジタル化したデータが公開されました。
その規模は、かなり大きいです。
ニューロンは約16万6,691個。それらがどうつながっているのかを、シナプスレベルで再構成しています。公開されたのは「MaleCNS(オスの中枢神経系)」と呼ばれるデータセットで、脳から腹側神経索までをカバーした、現時点では過去最大規模のコネクトーム、つまり巨大な神経回路の配線図とされています。
2026年6月ごろからデータ自体は公開され、同年9月3日に学術誌『Cell』へ論文が掲載された、という流れのようです。HHMI Janelia、ケンブリッジ大学、MRC分子生物学研究所、Google Researchなどが参加し、電子顕微鏡画像の再構築にはAIも使われています。シナプス接続は1億2,000万規模、細胞タイプは1万1,000種類前後といった数字も報告されています。メスの全脳コネクトーム(FlyWire、約13万9,000個)との比較も進み、性差のある回路は全体の一部にとどまる一方、求愛や攻撃といった行動に効いてくる可能性が指摘されています。
もちろん、これでハエの脳を完全に再現できた、という話ではなさそうです。実際の脳では、神経伝達物質、化学的な作用、細胞内部の状態など、配線図だけでは捉えきれないことが大量に起きています。公開されたのは、あくまで「どのニューロンが、どこにつながっているのか」がデジタル化されたもの、と考えた方がよさそうです。
それでも十分に面白いのは、公開の翌日のような速さで、世界中のエンジニアが勝手に遊び始めた点かもしれません。
いわゆるバイブコーディング、つまり「雰囲気と好奇心でコードを書いて試す」文化に、この巨大な配線図が乗っかった形です。MaleCNSの接続をコンピュータ上で動かし、視覚ニューロンへの入力をゲーム画面に割り当て、出力側を前進・旋回・射撃に結びつける実験が、すでに出ています。『DOOM』を学習させる「DOOMFLY」、『スーパーマリオ64』に接続して壁に向かい続ける試み、さらには車を動かす実験まで報じられています。うまく攻略できている、というより、まだ試行錯誤の段階に見えるものも多いようです。
ここが、個人的にはいちばん気になるところです。
巨大モデルをさらに巨大にする、という一本道だけではなく、「本物の生き物の回路を、オープンデータとして転がす」という別ルートが、少し見え始めているように感じます。ハエは人間よりはるかに小さい脳ですが、飛翔、ナビゲーション、求愛といった複雑な行動をします。配線が公開されると、研究者だけでなく、ゲームやロボット、シミュレーションが好きな人が参入し、仮説をコードで検証し始める。その循環が、コネクトーム研究とAI実装の両方を加速させる可能性はありそうです。
ただし、過大評価も危ういと思います。シナプスの有無は分かっても、発火のタイミング、変調、学習による変化までは含まれていません。ゲームが動いたからといって、ハエの「意識」や「知能」を再現したことにはならないでしょう。公開データの価値は、完全再現よりも、「感覚から運動までの一本道を、誰でも触れる形で置いたこと」にあるように見えます。
小さな脳の配線図が、大きなAIの作り方をずらすかどうかは、まだ分かりません。ただ、論文が出た瞬間に『DOOM』が動き出す光景は、オープンサイエンスとバイブコーディングが噛み合ったときの勢いを、かなりはっきり示しているように感じます。
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