「無駄」って、本当に無駄なのだろうか

子供の頃の収集癖が、今の自分をつくっている話

子供の頃から、「無駄なこと」にばかり力を注ぐタイプでした。

ここでいう「無駄」とは、今の言葉で言い換えるなら「すぐに金にならないこと」に近いのかもしれません。

歴史的・文化的な価値はあっても、市場価値としてはほとんど認められにくい縄文土器の破片。

地産の鉱物。暇さえあれば地図帳を開いて地名を覚えること。いつ使うかわからない雑学を集めること。

同級生が英検やTOEICに向かう傍らで、漢検ばかり受けていたこと。

そういう類のものです。

ただ、不思議なことに、その「無駄」が今になって効いてくる場面があります。

漢検で積み重ねた漢字の感覚は、文章を書くときに意外と支えになっているように感じます。

子供の頃に集めていた故郷の自然や人文に関わる品々も、今の活動の土台の一部になっているように思えます。

いわゆる「遅れて効いてくる知識」や「すぐには換金できない蓄積」に近いのかもしれません。

専門性だけを先に伸ばすのではなく、一見関係のないものを広く拾っておくと、後から点が線になることがあります。地図を眺めて地名を覚えていた経験は、土地の成り立ちや歴史を考えるときの補助線になることもありますし、鉱物や土器の破片を眺めていた感覚は、「もの」の背景を想像する習慣につながっているようにも感じます。

一方で、今の世の中は、マネタイズや即物的な実利を重視する空気が強いように見えます。

成果が出るまでの時間が短いもの、数字にすぐ表れるものが優先されやすい。

その中で「これは無駄ではないか」と自分に問いかけてしまうことが、増えたように思います。

けれど、「無駄」と「まだ価値が顕在化していないもの」は、必ずしも同じではないのかもしれません。

市場価値がないことと、人生や表現の基盤にならないことは、別の話のようにも感じます。

すぐに役に立たない知識や収集は、効率の観点からは不利に見えることがあります。それでも、長い時間をかけて自分の感覚や言葉の厚みになっていくこともあるのではないでしょうか。

もちろん、すべてを美化する必要はないと思います。

本当に burd な消費になってしまう収集もあるでしょうし、優先順位を見直したほうがよい時期もあるはずです。

ただ、「金にならない=無意味」と一気に切り捨ててしまうと、後から効いてくる種まで一緒に捨ててしまう恐れもあるように思います。

子供の頃の「無駄」が、今の自分の活動の基盤になっている——そう感じることが増えた今だからこそ、「無駄って、なんだろうな」と考えてしまいます。

答えは一つではないのかもしれません。

それでも、すぐに成果が出ないものに少しだけ余白を残しておくことは、長い目で見ると悪くない選択なのかもしれません。

同じような「無駄」を抱えながら続けている方も、少なくないのではないでしょうか。

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