「嫌われない努力」が、大切な人を見えなくしているかもしれません

SNSが日常になった今、「嫌われたくない」という気持ちは、以前より強くなりやすい傾向があるようです。いいねや返信の有無が目に見えるぶん、どうでもいいはずの反応まで気になってしまう人も少なくないのではないでしょうか。

ただ、ここにエネルギーを使いすぎると、本当に大切にしたい人へ向ける余力が残らなくなることがあります。今回は、そのあたりを少し整理してみます。

嫌われない努力と、好かれたい人に好かれる努力は別物です

「他人に気を使って生きること」と「他人に優しくできること」は、似ているようで中身が違うように思えます。

前者は、相手の機嫌や評価を損なわないための調整です。後者は、余裕があるから自然に出てくる振る舞いです。同じ「人への配慮」に見えても、出発点が違うのかもしれません。

アドラー心理学の『嫌われる勇気』でも、課題の分離という考え方が紹介されています。相手が自分をどう評価するかは、相手の課題であって、自分の課題ではない、という整理です。全員に好かれることを目標にすると、自分でコントロールできない領域に力を注ぎ続けることになります。

人のエネルギーには限りがあります

努力できる量にも、気持ちを注げる量にも、上限はあると考えられます。

「嫌われないための努力」に使いすぎると、「好かれたい人に好かれるための努力」に回す分が減ってしまうことがあります。職場の空気を読みすぎる、SNSの反応を何度も確認する、どうでもいい相手の機嫌まで取りにいく。そうした小さな消耗が積み重なると、家族や友人、信頼している相手との時間まで雑になりやすいのではないでしょうか。

誰に好かれるかより、誰を大切にするか。その人との時間をどれだけ確保できるか。ここに力を移したほうが、人間関係の疲れ方は変わりやすいように思えます。

全員に好かれなくていい、は冷たい話ではありません

嫌われることに敏感になりすぎると、本当に大切な人の存在までぼやけてしまうことがあります。これは本末転倒に近い状態かもしれません。

その結果、「もう誰とも付き合いたくない」という結論に至る人もいます。ただ、スタートの時点で、守るべき相手と気にしなくていい相手を同じ重さで扱っていた可能性もあります。

人は人と寄り添って生きるもの、と言われます。ここでいう「人」は、世の中の他人全体ではなく、自分にとっての大切な人を指している、と考えたほうがしっくりくることもあります。

その人たちを大事にする。そこから少し余裕が生まれて、精神的にも生活の面でもキャパが広がったとき、初めて他人にも過剰に気を使わず、フラットに向き合えるようになるのかもしれません。優しさは、無理に作るより、余ったところから自然に出るもののほうが続きやすいようです。

人間関係に疲れているとき、見直したい点

疲れの正体が、人間関係そのものではなく、「どうでもいい人に嫌われないための努力」にあるケースは少なくないように感じます。

全員に好かれなくても、大きな問題にはならないことが多いです。そもそも、日常で関わる人のほとんどは、深い関係まではいかない相手です。気にしなくていい範囲を少し広げてみるだけでも、残るエネルギーは変わります。

本当に大切な人を大事にして生きる。そちらに気持ちを使ってみると、見える景色も、周りに残る人も、少しずつ変わっていくのではないでしょうか。

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